長文になりましたが、紀伊國屋サイトの目次やamazonのレビュー等を見て興味
が湧きましたら、ぜひご一読ください。
それではご自愛の上、これからもさまざまな話題で刺激を与え続けてください
ますよう。
失礼いたします。
--- ここまで ---
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という格言は、プロ
野球の野村監督が、よく口にしますね。剣道の格言だったのか。
身体性への関心自体は、30年前の20歳くらいの学生のころからあります。そ
の後、AI(人工知能)ブームが起きてしぼんだころ、ちょうど東洋哲学、仏教哲
学などに興味を持ち始めてから、だいぶ、意識しましたね。
最近意識するようになったのは、やはり、安直な脳ブームと勝間和代ブーム
かな。一生懸命お勉強して、脳のうわべだけこねくり回したらすべてハッピー
みたいのが多いでしょ。お勉強といっても、基礎に戻らないうわべ、小手先だ
け、つまみ食いだけの「なんとか力」の類ばかり。「脳のうわべだけこねくり
回してどうするんだ」という感情がふつふつ湧き起こるわけ。
[URL]
勝間和代・小飼弾対談
にも関連といって身体性の話を書くのは、対談で、弾さんが肉体性という言葉
で言及しているから。
その内容がひどい。博学の弾さんも何も知らないんだなと思うくらい、ちゃ
ちな話になっている。記者は現場に行って足で取材しろという話に矮小化して
いる。それに「あほか、お前」という気持ちがあります。
弾さん、理系の世界は博覧強記で冴えた思考もするし、尊敬するんだけど、
文学や芸術や哲学や精神性といった文系・芸術系の世界は、からっきしだめな
のかもね。
それと何より大きいのが、この正月でほんとに50歳になったんですが、体が
衰えているのがよくわかるようになったから。脳だけ元気でも体がいうことを
きかないとしょうがないなと。これはもう否応なしに意識させられます。
型を身体で覚えることに関連した話をすると、スポーツや武道もそうでしょ
うが、歌舞伎、能、狂言といった古典芸能の世界は、やはりすごいですね。
理屈抜きに、否応なしに、型を叩き込まれる。これに対して、そういう修行
は、古くさくて、合理的ではない、型にはめるな、もっと自分の自由な表現を
などと思う人が多いと思う。
おれも学生のころとか、若いころは考えが浅いから、そんなの頭ごなし根性
論じゃないのかと思っていました。でも、古典芸能の世界に少し触れ、仏教哲
学などをちょろっとかじったりして、古典芸能の長い歴史が培ってきたやり方
は、実は洗練された合理的な鍛え方なんだと段々思えてきました。
歌舞伎も、幼いころから型を叩き込んでおかないと、疲れてきたときに表現
が乱れてしまうという話を聞いたか、読んだこともあります。
狂言については、野村萬斎がたびたびそういう発言をしていて、
[URL]
狂言サイボーグ (単行本)
野村 萬斎 (著)
という本まで出しています。勝間和代の
[URL]
自分をグーグル化した情報サイボーグの末路
とは 全く別次元のサイボーグ化の話です。古典芸能の修行には、心身、知性
の鍛え方の本筋があると思います。
[URL]
しましまカラーの抵抗で指輪作るぅ?!
もどうぞ。
身体で覚えるとは、身体と脳の奥深いところに、基礎をしっかりインストー
ルすることです。しっかりした基礎があって初めて、その上に揺るぎない高度
で自由な表現が構築できる。基礎の充実度がハイレベルだと、その上に構築さ
れる表現も高度で自由度が高いものになる。これは、当たり前の考え方だと思
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