「国文学 解釈と鑑賞」2011年9月号」の筒井康隆大特集について、その2
2011-08-13


ASAHIネット([URL] )のjouwa/salonからホットコーナー([URL] )に転載したものから。
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[URL]
「国文学 解釈と鑑賞」2011年9月号」の筒井康隆大特集について
の続き。

 執筆者への献本が、「ぎょうせい」から、やっと来ました来ました。
 冒頭のメールによる、筒井さんへのロングインタビューから、筒井文学論が
いきなり全開。
 文学におけるリアリズムについておさらいといいながら、平石さんがいうよ
うに、何ページにもわたる特別講義。\(^O^)/
 これまでの小説、エッセイ、対談、インタビュー、講演で語られてきたもの
を集大成して一気に解説。これだけでも元が取れる。
 大トリは、平石さん。最後にびしっと締めています。筒井康隆を読むとは、
そこまでやるのかと改めて驚かされる。
 本書にある他の方々の文章を読んでも、そこまで読み込める作品であること
にも、また改めて驚かされる。
 これで思い出したのが、ぼくの高校の同級生である小森収さんが、翻訳家の
松岡和子と話してまとめた、
[URL]
深読みシェイクスピア (新潮選書) [単行本]
松岡 和子 (著)
 その先行作品である
[URL]
小森収「はじめて話すけど… 小森収インタビュー集」(フリースタイル)

 これらを読むと、シェイクスピアを翻訳するとは、そこまでやるのかと驚く
話ばかり。またそれに耐える作品を、シェイクスピアが書いたことにも驚く。
 「ハムレット」のオフィーリアの台詞は、父親の台詞の文体を紛れ込ませた
り、前半は「I」がないが、後半、発狂してから「I」を使うようになるとか、
「マクベス」における「we」の使い分けなど、細かい書き分けを意図的にやっ
ているんですね。それに気づくか気づかないかは、作品の深みを味わえるかど
うか分かれ目だし、作品の持つ意味が全然違ってくるし、時に正反対になる。
 文学的読解力の世界、恐るべし。
 いま、コンピュータは自然言語処理が実用的になってきて、コンピュータが
文章を読んで要約したり、翻訳したりは、ある程度できるようになってきてい
るが、こういう文学的読解力は、読み手に想像力と創造性がないとだめなだけ
に、当分、無理っぽいです。
 シェイクスピア作品は、何百年もみんながつつき回しても、まだ新しい発見
が出てくるわけで、筒井康隆作品も、そういうものだと実感できるのが、「国
文学 解釈と鑑賞」の筒井康隆大特集でした。

 同封されていた手紙によると、「国文学 解釈と鑑賞」は、次の2011年10月
号で休刊し、75年間の歴史に幕を閉じるとのこと。今後もバックナンバーとし
て販売は続けるが、なくなり次第、終了とのこと。

 平石さんが、#23120で、
--- ここから ---
発行部数を販売部数に近づけているそうで、短い時間で売り切れてしまう怖れ
もあるそうですから、お近くの書店さんで見あたらなければネットなどを利用
してかならず押さえておいたほうが良いと思われます。
--- ここまで ---
と書いておられますが、
[URL]
国文学 解釈と鑑賞 2011年 09月号 [雑誌] [雑誌]
をみると、アマゾンは、
「6点在庫あり。ご注文はお早めに」
だから、在庫が残り少なくなってますね。

関連:
[URL]
「国文学 解釈と鑑賞」2011年9月号」の筒井康隆大特集について
[URL]
小森君、ありがとう。松岡和子「深読みシェイクスピア」

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