大分トリニータ物語
2008-03-28


ASAHIネット([URL]のkick/salonからホットコーナー([URL] )に転載したものから。
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 漫画雑誌「ビジネスジャンプ」増刊、「ビージャンこん」2008/05/01第40号
に、原作木村元彦、漫画宮城シンジ「大分トリニータ物語」というのがありま
した。
 ほんとにゼロからの出発だったんですね。
 中心となったのは、当時の自治省(現在の総務省)から大分県文化振興課長と
して出向していた溝畑宏(当時28歳)と、韓国代表で1990年イタリアワールドカ
ップで活躍し、スペイン戦でFKを決めたエースのファンボ・カン選手。当時の
韓国サッカーの英雄です。
 ファンボ・カン選手の活躍を覚えていた溝畑氏が、大分にワールドカップ招
致、そのためにはクラブチームが必要ということで、1994年に大分トリニータ
の前身、大分トリニティを作るときにファンボ・カン選手をくどいたそうです。
 ファンボ・カン選手はアメリカのMLSなどからも誘われていたのですが、溝
畑氏の熱意にほだされて来日します。
 ところが、あなた。練習場がなく、大分ガスの野球グランドを使用。当然、
芝生ではない。着替えのロッカールームなどなく、ワゴン車の中で着替え。埋
立地なので、雨が降ると土の中から海藻が湧いてくる。\(^O^)/
 それでもファンボ選手は、親会社がなく、当然、元になる企業チームもなか
った大分を闘志あふれるプレーと高い技術でJFLへ昇格させ、1997年に引退。
一度は韓国に戻りますが、下部組織を育てるために助けてくれという溝畑氏の
要請にこたえて来日。
 大企業がなくメインのスポンサーがいない大分は、資金繰りが大変。ファン
ボさんも大分から日本代表を出すために資金をお願いしますと、大分の企業に
頭を下げて回る毎日。
 その中から、オスムジャパンで日本代表に呼ばれたGKの西川などが育ってく
るわけですね。
 ファンボさんは、J2時代の監督をやりましたが、結果が出ず、溝畑氏は、全
てを捨てて大分に尽くしてくれたファンボ監督を断腸の思いで解任。ファンボ
さんは、トリニータの育成部長になり、日本に骨を埋める覚悟を決めます。
 そして、溝畑氏もキャリア官僚としての人生を捨て、自治省を退職。トリニ
ータの経営に専念することになったと。
 最初はたった3人しかサポーターがいなかったそうですが、いまや、毎試合
2万人近い観客動員があるそうです。
 やはり、日韓ワールドカップで大分が一番話題になったのが大きかったんで
しょうね。県民が初めて世界とダイレクトに肌で接して、サッカー文化が何か
をつかんだんだと思います。
 大分は経営が苦しく、2005年に債務超過になったとき、税金を投入すること
に県民の反対はほとんどなかったそうです。それだけ、我が県のサッカーチー
ムをもつことの、金銭を超えた意義を県民が理解していたんでしょうね。
 大分トリニータは、チームとして日本代表クラスの若い選手も育ているし、
外国人の補強も上手にみえるし、いま、シャムスカ監督の手腕もすごいですし、
監督選びも上手にみえます。
 お金がないけど、知恵と人脈とフロントとサポーターの熱意で、いい監督、
いいコーチ、いい選手を集めてなんとかしているところは、オシム監督時代の
ジェフ千葉に似ている感じがします。

 ジーコがJリーグ発足前に、鹿島アントラーズの前身である、住友金属の社
会人チームをJリーグに参加できるようにするために来日した頃の話もすごか
ったですよね。
 あの世界のジーコが、満員電車に揺られて練習場に通い、芝生のないグラン
ドでサッカーをし、選手にはサッカーの基礎から教え、フロントには何をどう
改善していけばいいか、施設から体制から指導方法から惜しげもなく伝授して、

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