Re: 儒教、「義」による経営
2008-01-16


ASAHIネット([URL]のjouwa/salonからホットコーナー([URL] )に転載したものから。

[URL]
儒教、「義」による経営
の続き。

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標題: Re: 儒教、「義」による経営
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 松下電器とかナショナルという名前がパナソニックに変わる松下グループの経
営はどうなんでしょうね。社員は家族という考え方は仁だろうけど、パナソニッ
クとなる事によって、西欧型=ユダヤ商人型に変わるのでしょうか。

 イスラエル成立まで国を持たなかった流浪のユダヤ人の多くは、各国に根を
張ってその国の経済を握るような立場にまで成り上がったわけですが、その信奉
する経済の世界が弱肉強食を称揚するだけのグローバルスタンダードという事に
なると、困ったことになります。

 どこぞの基本ソフトを売る会社のように、他者のアイデアを金にあかせて買い
取り、それを平然と「自社開発」などと称して売りつけ、それで巨利を得る。他
者のアイデアを買い取る金のない企業には無理な話ですが、金があれば何でもで
きる。

 アラン・ケイが考え、スティーブ・ウォズニアクが実現しようとしたコン
ピュータ利用による理想の情報共有社会などは雲散霧消するわけで、今や哲学な
き金儲けだけが横行している。金儲けと正義は両立する、という図式は、儲ける
側が「どう世の中と関わるか」という問題でもあるわけですが、それは企業外の
社会との関係の作り方、という問題でもあるわけです。ここに「義」がなけれ
ば、その企業は暴力団の経営する企業舎弟と基本的に変わらないという事になり
ます。

 企業は、その企業が社会にとって役立つものを製造・販売・提供しているから
こそ成立が許されるものであり、それが収奪や搾取などのマシンになる事は、消
費者そのものを削減する行為となり、結局は企業自身の存立を危うくするわけで
す。アメリカではある程度ピーク時の企業が突然売りに出されたりするわけです
が、これはその企業である儲けを得た人達が、その企業の社会的存立意義がピー
クになったため、その後の下降線を見通して売り抜け、個人的な巨利を得るため
である場合が多く、企業そのものも切り捨てられる対象となる冷徹な資本の原理
が背景にあります。そこにある資本の論理は、社会的責任というモノをまったく
顧みない利己的なものだと言えるでしょう。

 そして、そうした利己的な利益が動機となる説得力皆無の戦争すら起き、それ
が社会的には恵まれず兵役で食いつなぐしかないような貧困家庭出身の若者が兵
士となって、その屍を他国の地に大量に生み出しているわけです。当面の利益が
全てで、将来の優良な消費者となるであろう存在すらスポイルし、目先の利益が
大きければ後は野となれ山となれの世界。未来を構築すべき政治が、そうした利
己的近視眼的な資本の論理に左右され、コントロールされている。本来はコント
ロールしなければならぬ側が、コントロールされているというのが、実はグロー
バルスタンダードの真の姿なのではないか、と思うわけです。そこにある社会の
姿は、様々な形で社会の安定を保つために作られてきた先人の知恵でもある社会
保障制度などは隅に追いやられたものでしかありません。

 言っておきますが、儲けるのが悪いと言っているのではありません。儲けるこ
とは結構です。しかしそこには社会との関係を資本の側がしっかりと捉え、経営
する側が社会に対する責任を全うするという姿勢が必要であり、企業の持ち主た
る株主は、社会に対する企業の責任を経営者とともに負う義務がある、という事
です。実はそこがスッポリと抜け落ちているのではないか、という事なのです。
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たま@無精庵

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